ガラテヤ4章

4:1 つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、

4:2 父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。

 これは、前章の言葉を受けています。私たちは、神の子であり相続人であるにもかかわらず、律法のもとに置かれていたことの説明です。

ガラテヤ

3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。

3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

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 相続人と奴隷の関係について示しました。相続人は、御国の相続人です。相続人でも、父の定めた日までは、奴隷と何も変わりません。後見人や管理人は、律法の比喩です。

4:3 同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

 奴隷の状態は、この世の諸々の原理の下の奴隷という意味です。原理とは、教えのことです。

 これは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も対象にしていますので、そのように表現しています。

・「諸々の霊」→原理。複数形。

4:4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

 その時、御子が来られたのですが、女から生まれた者、律法の下にある者すなわちユダヤ人としておいでになられました。神が遣わされたのです。

4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

 それは、律法の下にある者すなわちユダヤ人を贖い出すためです。それによって、私たちと表現しているユダヤ人が子としての身分を受けるためです。

4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

 あなた方と呼ばれている異邦人であるガラテヤ人も子であるので、神は、御子の御霊を私たちの心に遣わされたのです。御霊は、御子の御霊と言われています。御子の御心のままに事を行う方であるからです。また、人が御子の行いをするためです。

 神を「アバ、父よ」と呼びます。これは、御子の御霊が私たちの心に遣わさたことの証しです。私たちのうちにあって、御子がそう言っておられるのです。

ヨハネ

16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

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4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

 私たちが子であることは、相続人であることを意味しています。私たちが子であることは、相続人にふさわしい行いをするからです。なぜならば、私たちのうちにあって業をなすのは、本物の御子であるからです。ですから、神は、相続人にふさわしい行いであると評価し、報いを与えられるのです。

4:8 あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。

 あなた方とは、異邦人であるガラテヤ人のことです。彼らは、神を知らなかった時、神々の奴隷でした。神々の教えに支配されていたのです。

4:9 しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

 しかし、今では、神に知られています。神を知っていることを言い換えてこのように言っていますが、彼らが子として、相続人として知られているのです。それは、御子の御霊を宿しているからで、御子と同じものとしてご覧になっておられるのです。神にとって最大の関心事は、御子です。

 それなのに、彼らは、再び奴隷に逆戻りしようとしていました。それは、弱くて貧弱な諸々の原理に戻ることです。原理とは教えのことです。

4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。

 ガラテヤ人は、律法の規定どうりに日、月、季節、年を守っていました。

4:11 私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。

 彼は、ガラテヤの集まりの問題点を指摘しましたが、それがガラテヤの信者のために、心配する心からのものであることを言い表し、彼らが反発することなく、素直に忠告を受け入れることを期待しました。

 教えの誤りを正すことは、非常に難しいことです。自分が正しいと思っていたことを否定されると人は素直になれません。理屈では正しいと分かったとしても、受け入れないのです。また、それを指摘した人を憎みます。その勧めは、愛による必要があります。また、相手に愛によって進めていることをわからせ、悪感情がないことをよく分からせる必要があります。

4:12 兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。

 「私もあなた方のようになった」ことは、次節から十五節までに記されていることです。そこには、ガラテヤ人がパウロになした良いことが記されています。そのことについて、「あなた方は私に悪いことは何一つしていません。」と言っています。良いことだけだったのです。パウロがしていることも、ガラテヤ人がパウロにしてくれた良いことと同じように、良いこととして勧めているのです。

4:13 あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。

「肉体が弱かったため」→「肉体の弱さを通してあるいは肉体の弱さによって」。「ため」と訳される場合もありますが、この原語の意味は、「~をとおして~する。」という意味です。「~を通して」ある結果がもたらされた場合、それが原因となっているのですから、理由を示すもとしてし「~のため」と訳すことができます。しかし、ここでは、肉体が弱かったことが理由で、福音を伝えたという結果がもたらされたのではありません。訳は、倒置法の構成になっていますので、原語の構成が分かりにくいですが、直訳としては「私は、最初、肉体の弱さを通してあなたがたに福音を伝えました。」とするのが適切です。

4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

 その肉体の弱さは、ガラテヤ人にとって試練となるものでした。社会では、軽蔑したり嫌悪したりするような肉体の障害を持っていたのです。今日こそそのような肉体的な障害は、その人の個性として受け入れられる土壌が醸成されつつありますがそれでもつい最近のことです。当時は、差別されたのです。そのような中で、何の隔てもない交わりをすることは尊いことです。しかし、ガラテヤ人は、それ以上のことをしました。パウロを神の御使いのようにまた、キリスト・イエスであるかのように受け入れたのです。非常に尊びました。

4:15 それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。

 この幸いは、彼らが信仰によって歩んでいる良い状態を指しています。すなわち、パウロから伝えられたことをそのまま受け入れ、従っていたのです。しかし、今は、律法を守っていて、神の祝福を逃していたのです。彼らがかつてそのように幸いな状態にあったのは、パウロの教えたことをそのまま受け入れ、堅く守っていたからです。パウロを心から尊敬していました。神の仕え人として敬っていたのです。ですから、パウロから伝えられたことを神の言葉として受け入れ、従っていたのです。パウロを敬いますから、彼のために自分の目をえぐり出して与えることも厭いませんでした。

・「幸い」→神の永遠の祝福を受け取っている状態。

4:16 それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。

 しかし、今は、真理を語ったパウロを敵のように考えているのでしょうかと問いました。かつては、真理の言葉を喜んで受け入れ、従いました。パウロを敬っていたのです。しかし、今は、自分たちが正しいと思って受け入れた他の教えに従ってきたので、真理を語る者が敵のように感じられるのです。

 人は、一度、自分が正しいとして受け入れた教えを捨てることは難しいのです。それが間違いだと指摘された時、その間違いを認め、正しい教えを受け入れるのでなく、あくまでも一旦信じた教えに固執するのです。むしろ、正しい教えが間違っているとさえ考えます。

 誤りを認めない理由は、少なくとも二つあります。一つは、自分の誇りのためです。もう一つは、何が正しいのかという真理を正しく追求しないからです。また、その研究の方法、御言葉の解釈に対する考え方の誤りがあるにもかかわらずそれを認めないからです。

4:17 あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。

 彼らの熱心は、道徳的に正しい、良いものではないのです。すなわち、悪意が込められているのです。

・「善意:G2573」→(道徳的に)良い。正しい。形容詞。

4:18 善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。

 神の目に適って熱心に慕うことは、いつでも、神の目に適っているのです。あるいは、良いのです。

 そのような熱心で慕うことは、パウロがいないときでも同じです。それを言うのは、パウロがいないときに、パウロに対する熱心が失われたからです。

・「善意:G2570」→美しい、神の目に適った。形容詞。

・「良い:G2570」→神の目に適った。形容詞。

4:19 私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

 パウロにとっては、ガラテヤ人は、子どもでした。パウロが生んだ子どもなのです。彼らは、キリストに似た者になるために生み出されたのです。彼らは、キリストからかけ離れた姿になってしまいました。信仰によって義とされ、キリストが彼らのうちにあって業をなすのであれば、彼らは、キリストに似た者になります。そのきよさも、愛も、真実もキリストそのものの行いになるのです。しかし、律法を行うことで義とされようとすることで、結果的にキリストが彼らのうちにあって業をなすという真理の教えを捨てたのです。

 彼らがキリストによって歩むようになるために、もう一度真理の教えに歩むように教えなければなりません。それは、産みの苦しみです。間違った教えを正すことは、以前よりも遥かに労力のいることです。

4:20 私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。

 彼は、熱を帯びて語りました。それは、ガラテヤ人を心配したからです。困惑していました。

・「途方に暮れている」→日本語の意味は、「方法や手段が尽きること。」しかし、手紙による説得という方法のさなかであり、尽きたとはいえない。これ以降も説得は続いています。ですから、これは、困惑しているという意味。

4:21 律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。

 律法の下にいたいとあくまで願う人がいるとしたら、その人は、律法の言うことを聞かないのですかと問い、律法自体が、律法に従うことは、奴隷となることであることを示しました。

4:22 アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。

 これが律法に書かれていることです。

4:23 女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。

 女奴隷の子は、肉によって生まれたのです。これは、肉の行いによって律法を行うことは、奴隷であるということです。

 約束を通して生まれた者は、奴隷ではありません。律法の奴隷ではない律法から開放された自由の者であるのです。約束が与えられているので、それを信じて歩むのです。

4:24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。

 この女たちは、二つの契約の比喩です。一つは、律法による契約です。

4:25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。

 その律法は、シナイ山で与えられましたがその契約を受けている民は、エルサレムにいます。

 多くのユダヤ人は、律法の奴隷となっています。それは、契約によるのです。

4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。

 地上のエルサレムに対比して、上にあるエルサレムを取り上げています。新しい契約によって生まれる子の居住地について示しています。これは、三十節にあるように相続地のことです、神が共におられる神の都のことです。

4:27 なぜなら、こう書いてあるからです。「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」

 これは、イザヤ書の引用ですが、贖われた者たちの相続についての預言です。不妊の女であるサラに当てはめています。その子が相続者となります。

4:28 兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

 ガラテヤ人に、彼らの立場を明確に示しました。約束の子なのですから、律法にはよらないのです。

4:29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。

 そして、比喩についてさらに示していますが、奴隷の子が約束の子を迫害することも、神様が予め示しておられたことです。律法を行うことを主張する者たちは、約束により、肉にはよらず御霊によって歩んで義とされることを信じて歩む者たちを迫害するのです。

4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」

4:31 こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。

 聖書は、女奴隷とその子供として示されている律法によって歩む人々が相続人にはなれないことを比喩として示しています。

 このように、律法を行うことで歩む人々は、奴隷なのです。彼らは、御国を相続できないのです。御国において何の報いも相続することがありません。

 しかし、律法から開放されて自由の者として歩む者たちは、報いを相続するのです。

 なお、御国の相続は、いわゆる救いの立場を持つことではありません。地上で御霊によって歩み、神の御心を行って実を結んだことに対する報いを相続することです。